民事裁判においては、原告被告のどちらが勝とうが、国家としては、裁判に

よってお互いの間の紛争さえ片付けばそれで足ります。そのためには、

お互いの証拠に現れたところだけで原告被告のいずれが正しいか

考えれば足り、あえて紛争の底にある真相は何かを

探る必要はないです(形式的真実発見主義)。

 ところが、犯罪は社会の秩序を乱すので、刑事裁判においては、国家としても、

民事裁判の場合とは違って、真相の発見に努めて犯罪者は必ずこれを処罰し、

それにより秩序の維持を図らなければならない。

これを実体的真実発見主義(積極的実体的真実主義)といいます。だが反面、

刑事裁判において、あまりにも実体的真実の発見に急であると、

得てして戦前のように、関係者の人権(とりわけ被疑者や

被告人の人権)を侵害してはばからない結果ともなりかねません。そのあげく、

真相の発見に名を借りて拷問が公然と許され、無実の者が

処罰されることになっては、刑事訴訟における正義は、

完全に失われてしまいます。そこで、犯罪は必ず発見して処罰することも

実体的真実発見主義の一面であろうが、また同時に、無実の者を

決して処罰しないことも、

実体的真実発見主義(消極的実体的真実主義)の忘れられてはならない一面

であるといわなくてはならないです。

 実体的真実発見主義の名において、そのいずれを強調するかは、それぞれ国家の

体制によって異なるが、現在は、「100人の有罪を逃れしめても1人の無実を

罰することなかれ」ということこそ強調しておかなくてはならないです。