「犯罪は行為である」。

  これは刑法学における伝統的命題でありましたし、今日でもなお

 通説によって犯罪の本質として支持されています。


  通説は、行為概念は刑法の体系上二つの意味を持っているとされています。

 第一に、行為は刑法上問題となる一切の現状の最外側を画すものです。

 すなわち、「行為でない犯罪はない」ということになります。

 第二に、行為は、それに構成要件該当性・違法性・有責性が

 属性として付け加えられる実体です。


  通説の行為概念(因果的行為論)によれば、行為とは意思に基づく

 身体の運動または静止(動静)です。

 意思の客観かまたはその外部的な表現といっても良いです。

 それで、意思の客観化といえないところの反射運動や偶然的事故や

 絶対的強制下の動作・態度は刑法上の行為ではありませんし、

 また外部的に実現されない単なる内面的意思もまた

 刑法上の問題とはなりません。

 ただ、この考え方では、成立した結果と何らかの意思に基づく身体の

 動静との因果関係が、行為論の中心的な問題として取り上げられ、

 意思内容は責任の問題であるとして行為論から

 除外されています。


  これに対して、比較的最近、ドイツのヴェルツェル(Welzel)ウェーバー

(Weber)マウラッハ(Maurach)などの学者によって主張された目的

 行為論によれば、人間の行為は目的活動であり、これまで責任条件と

 されていた故意(事実的故意事実の認識)こそ行為の本質的要素、

 したがって構成要件の主観的要素・主観的違法要素であるとされます。

 そうして、この説はこのように故意(事実的故意)を責任論から除外する

 ことによって、これまで事実の認識と並んで故意の要素と考えられていた

 違法性の意識について、この違法性の意識の可能性を、独立の責任要素

 として把握する見解(責任説)を採ることを理論的に基礎付ける

 ことができると主張しています。


  しかし、この説は、故意を行為の本質的要素としますので、

 いわゆる過失行為は行為の本質的要素とされた故意を

 欠くことから、行為といえないのではないかとの

 疑問が生じます。

 そこで、この点を巡って議論が集中し、

 

①「犯罪は行為である」という命題そのものを否定し、

 過失行為は行為でないとする者

②潜在的目的性ということで過失行為も行為とする者
 

  
 等々が出ていますが、まだ統一した結論には至っていません。