不真正不作為犯が成り立つためには、行為者にその結果を防がなければならない

 法律上の義務、すなわち、作為義務がなければなりませんが、この作為義務は、

 普通、①「法令」、「契約・事務管理」、「先行行為」に基づいて生じるとか、

 ②「法令」「契約」「慣習ないしは条理」「先行行為」に基づいて生じるとか、

 ③「法令」「契約・事務管理」「慣習・条理」「先行行為」に基づいて生じる

 とか、④「法令」「事実上の引受」「先行行為」「密接な社会的な関係」に

 基づいて生じる、という考えが有力に主張されてきています。

 これは、作為義務の根拠を、法律とか契約といった、いわば「形式的な基準」

 に求めるものなので、ドイツでは、「形式的な作為義務説」(形式的な

 法義務説)と呼ばれているものです。


  ところが、比較的最近になって、こういう「形式的な基準」では、必ずしも作為

 義務が生じる場合を明確に示すことができないのではないのか、という

 義務が出されるようになり、そういう立場からは、作為義務には、

 その内容からいえば、

 ①「一定の危険の源を監視する義務」(監視義務)と、

 ②「一定の法益を保護する義務」(保護義務)があり、

 こういう義務がある場合に、不真正不作為犯が

 成り立つ、としています。


  前の一定の「危険の源を監視する義務」というのは、「ある危険の源から生ずる虞の

 あるすべての法益の侵害を守るために、その危険の源を監視しなければならない

 義務」のことであり、これは、例えば、他人の法益を侵す危険のある土地とか

 建物を持っている者とか、他人に危害を加える虞のある精神障害者を

 看護している者などに認められるものです。

 また、後の「一定の法益を保護する義務」(保護義務)というのは「(すべての、

 あるいは、一定の)危険から一定の法益を保護しなければならない義務」の

 ことであり、例えば、親子の間とか、夫婦の間とか、法人の機関とか、

 一緒に探検や登山にいった場合に認められるものです。

 これは、作為義務がどういう場合に生じるのか、ということを、これまでの

 「法令」とか「引受」といった形式的な基準からではなく、その作為

 義務の内容から、実質的に考えていこうとするもので、

 「機能説」と呼ばれています。


  我が国では、最近では、「形式的な作為義務説」(形式的な法義務説)を

 ベースに置きながら、「機能説」をも加えて作為義務が生じる場合を

 考えようとする考えも主張されています。

 しかし、ドイツでは、作為義務を、「危険の源を監視する義務」と「一定の法益を

 保護する義務」とに分類することに疑問を呈し、別のカテゴリーを持って

 こようという考えも出されています(ヤーコブス)。

 「危険の源を監視する義務」は同時に「一定の法益を保護する義務」になる

 ことがあり、この二つははっきりと区別することができないのではないか、

 という疑問です。

 そこで、ドイツでは、今、この問題についての状況は、

 まだ代わる余地があり、なお流動的な状態にある、

 といわれています。